それでは、ミカ書1章2節〜7節のところですけれども、2〜5節の前半お読みいたします。1581ページ。

「すべての民族よ、聞け。地とそこに満ちているものたちよ、耳を傾けよ。神である主は、あなたがたのうちで証人となり、主はその聖なる宮から来て証人となられる。見よ。主は御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれる。山々は主の足もとに溶け去り、もろもろの谷は裂ける。まるで、火の前の、ろうのように。坂に注がれた水のように。これはみな、ヤコブの背きのゆえに、イスラエルの家の罪のゆえだ。」

 先週からミカ書に入らせていただきました。初めにこのミカという預言者は、南北両国イスラエルの預言者として召された器であるということを伝えていました。そして、イザヤはウジヤ王から王宮に仕えていた状況の中、ミカはその後のヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に仕えたということから、彼はイザヤよりもまだ若い器であったということにも触れました。確かに彼は南北両国イスラエルの預言者として遣わされた器ではありますけれども。冒頭彼が「聞け」と言って呼びかけている対象は、「すべての民族、地とそこに満ちているものたちよ」というふうになっています。彼がなぜ、すべての民族、地とそこに満ちているものたちに対して耳を傾けよと呼びかけているのか。この呼びかけをもって始めているところに今晩メッセージをお取り継ぎしたいと思います。2つのこと。

①このことを通してミカがいかに近視眼的な働き人ではなかったということを私たちはまず見ることができるということを申し上げたいと思います。実際、ミカが目にしている現実というのは、極めて自堕落な、この南北両国イスラエルの有様でした。それは5節の後半から、

「ヤコブの背きとは何か。サマリアではないか。ユダの高き所とは何か。エルサレムではないか。」

そしてその町々が神様の裁きに遭遇しなければならないということが6、7節に続くわけですね。極めて自堕落な祖国の有様。そしてその彼らを扱わなければならない立場に置かれているものです。しかし彼が、この責務に従うためにまず、神様が相手取っておられる人々というのは、ただイスラエル選民だけではなく、全世界の全人類を救おうとする計画。そして神様の重荷。それをしっかり踏まえた上で、祖国の救いのために預言者として立っている人物であると。それに比して、前々回で学びましたヨナ書の場合では、全く自分の国のことだけということだったんですが、ミカは「すべての民族、地とそこに満ちているものたちよ」全世界の国人に対してメッセージを送っているということから始めているのを見た時に、彼は近視眼的な働き人ではないということがまず、特色として見ることができるということを申し上げておきたいと思います。折に触れ開かせていただいている箇所ですけども。創世記12章を開けていただきましょう。1〜4節。もう何度も何度も聞いていただいている内容のことではあるかとは思いますけれども。神様は全人類を均等に11章まで扱っておられましたけれども。11章後半からアブラハムを登場させていますが。一つの国を選ぶことを通して全世界を救おうというご計画に変えておられる。特にアブラハムに対する召命ということで12章1〜4節に出てきます。

「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたをのろう者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは75歳であった。」

初めにカルデアのウルで召しの声を聞いたということについては、使徒の働き7章でステパノの説教の中で言っています。それも含めて、そして4節では、ハランを出るということは、カルデアのウルから出てハランに到達し、ハランを出る時にまた神様がこのような語り掛けをなさったということになるわけですね。ここで、「あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたをのろう者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福され」なければならないから、あなたがたは祝福となるようにという召しなんですね。ご存知のように選民はこの目的を履き違えてしまって、自分たちの祝福のみを求める。そして他の人々を蔑み、優越感に浸り。そして神様からの鉄槌をくださらなければならなくなってしまって今に至っているということですけれども。本来、彼らは確かに祝福されなければならない。それは、全世界があなたを通して祝福されることになるため。究極、アブラハムの子孫であるキリストを通して全世界が救いに至る。これが神様の救いの展望なわけですね。ミカはしっかりとこのことを受け止めての預言者であった。もう一箇所ですけれども。ガラテヤ3章を開けていただきましょう。378ページ。13、14節をお読みしますね。

「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」

キリストによって異邦人に祝福が及び、そして究極、すべての人々が聖霊を受けることによって、その神様の贖いのための備えをもって全世界が祝福されるようになるというご計画なわけですね。もとに戻っていただきます。ミカ書。「すべての民族よ、聞け。地とそこに満ちているものたちよ。」そう語りながら、「神である主は、あなたがたのうちで証人となり、主はその聖なる宮から来て証人となられる。」というふうになっているんですね。ミカは神様をどのようなお方として登場していただいているかということを見てみたいと思います。2節の「神である主は、あなたがたのうちで証人とな」って、そのために聖なる宮から出て来てそれを果たすというふうになっているんですけれども。この訳をさまざまと考えてみながら、味わってみながら文語訳の聖書を見てみました。そこにはこのように訳されているようですね。「神である主は」はエホバとなっていますけれども。「汝らに向いて証を立て給わん。」ということですね。ですから、あなたがたに対して、証を立てるというふうに仰っているんですね。「即ち、主のその聖なる宮から出て証を立ててくださる。」というふうになっています。この意味は、もうちょっと見てから理解していただけると思いますけれども。3、4節を見ていただきますと、「見よ。主は御住まいを出」この聖なる宮から出るということは、「降りて来て、地の高い所を踏まれる。」これは地上に建てられた宮に臨在しておられるところから立ち上がるということではなく、全宇宙的な、神様が一切を支配していらっしゃる。そして一切を従わせていらっしゃる。そこから絶対的に聖なるお方が圧倒的な権威をもって裁きのために地上に干渉すべく降りてこられるという意味なんですね。それはどうしてかというと、5節の前半に記されているように「これはみな、ヤコブの背きのゆえ、イスラエルの家の罪のゆえだ」と記されています。現在、本来だったならば、全世界の国民を神様が祝福するために、選民たちが神様から祝福を受けた状態で存在しているべきなのに、彼らはそのような神様のご目的とは全く真逆な状態で罪を平然と行ってしまっているからだということになってくるんですね。ちょっと遠回しになった説明になるかもしれませんけれども。平易に申し上げたいと思います。神様はご自身で証しをあなたがたに対して立てると仰ったのは、本来、選民は全世界に神様というお方はどのようなお方でいらっしゃるのか、そして私たち神様に従うべく召された選民がこのようにして神様に従うということがどれほど祝福に満ち満ちたものであるのか。祝福とはどういうことなのか。それを明らかに他の国々に、彼らの祝福となって他の国々に証しをしなければならない責務を担っているのにも関わらず、残念ながら選民はその責任を果たすことが出来ていない。そのために、わたしはその彼らを正しくさばくことによって、神とはどういうものなのかということを、神自らあなたがたに証するものとして天から降りてくるというふうに仰ったのですね。分かっていただけたでしょうか。ミカは、この2〜5節の前半抜きに南北のイスラエルの罪に対して、神様がこのような裁きをあなたがたに与えようとしている。罪を暴き、そしてそれに対して悔い改めへの道を開こうと。そこから始めてもよかったわけですね。ところが彼の重荷は、まず全世界に向けて、神様がどのような思いをもってこのイスラエルの民の罪悪を見ておられるのかということを証しているということなんですね。すべての民族よ、地とそこに満ちているものたちよ。耳を傾けて聞きなさい。神様ご自身が、選民を通してということにはなかなかなっていない現状を見て、神様ご自身が、わたしはこういうものだ。選民であろうが、彼らの今の現状に対して、見過ごすわけにはいかない。彼らの罪悪に対して、はっきりとした裁きを示す。それがわたし自身なのだと。そしてその罪が裁かれるということのためには、本来あるべき祝福から逸脱してしまっているから、その祝福ある立場にかえさなければならないから、そのようにするのだと。選民はわたしを証することに失敗してしまっている。だから、わたし自身が天から降りて来て、このことについて明らかにしようとするということをミカは伝えているということなんです。神様がひとたび、ご自身の一手を加えようとする時、干渉しようとする時、これは大変な現象を見なければならなくされるのだということで4、5節の前半ですね。「山々は主の足もとに溶け去り、もろもろの谷は裂ける。まるで、火の前の、ろうのように。」

瞬く間にろうそくが溶けてしまうという。そして、「坂に注がれた水のように。」というのは、流れていく勢いのように。「これはみな、ヤコブの背きのゆえに、イスラエルの家の罪のゆえ」に。わたしはそのようにするために降りて来なければならないんだということを神様は言っていらっしゃるということをミカが言っているわけなんです。私たちは、まさに、霊的選民としてこの世に立てられています。そして選民の役割。使命というのは、私たちは祝福されなければならない。その祝福というのは、礼拝でも、そしてそれぞれの集会で学んでいますように、決して何か表立って見栄えの良い生き方をもってということをいう前に、もちろんそれは素晴らしいことであり、イエス様ご自身が生きられたように生きるという表立った状態が与えられるということは素晴らしいことですけれども。しかし、それを目的にするならば、偽善的な生活になってしまう。心の中にはどのようなことを考え、どのようなことを思い、どのようなことを計画しようが表立ってよく見せるということだけに専念してくる時にクリスチャンのいのちは失われます。表向きの状況というのは、私たちが気にするところではなく、私たちが本当に神様から祝福されている存在であるということの意味合いは、表向きのことではなくと学んでいますように、どれだけ自分自身を知り、そして知らされるその都度謙虚に私たちの内なる肉が見つけ出さしていただいたその都度その都度きよめられ続けて聖霊に明け渡し、聖霊の満たしを与えられ続けていくかということに鍵があると学んでいます。祝福されている状態というのは、私は主の血によって生かされています。血による赦しときよめの恵み。そしてそこに満ちてくださる聖霊に信頼しながら、信じながら生きていくことをもって喜びとしていますという霊的状態が、祝福された状態ですね。

②イスラエルの民はそのような祝福から全く遠のいてしまっているような在り方。それが5節後半から。これが2番目の問題として神様がご自身で証を立てなければならなくされた彼らの霊的状態が出てくるんですね。「ヤコブの背きとは何か。サマリアではないか。」これは北イスラエルの首都、サマリア。そして南「ユダの高き所とは何か。エルサレムではないか。」ということなんですけれども。北のサマリアにおいて、南ユダの首都において、ここに高き所。これはまさに偶像礼拝ということですね。「わたしはサマリアを野にある瓦礫の山とし、ぶどうを植える畑とする。その石を谷間に投げ込んで、その基を暴く。その刻んだ像はすべて打ち砕かれ、儲けはみな火で焼かれる。」この儲けというのは、後に出て来ます遊女の儲けというふうになっていますね。いわゆる神殿娼婦という問題が出て来ますけれども。それらのものが忌まわしいものとして完全に焼き尽くされる。「わたしはその偶像をすべて荒れすたらせる。それらは遊女の儲けで集められたのだから、遊女の儲けに戻る。」ということになっているわけですけれども。それぞれの中心地における忌まわしい偶像礼拝の罪悪に対して、明確な糾弾がここに出て来ています。そしてその裁きというものは壊滅的なものであるというふうになっているわけですね。彼らの本来、神様に祝福された状態で、救いを喜び、神様を賛美し、そして自らはなんと虚しい者であるのか。しかし、このような者に、そして弱さを知る者をこそキリストの恵みによって強めて生かしてくださっている。その状態をもって神様ご自身による祝福というものがどういうものなのか。それは贖いの恵み。選民を通してすべての民族を通して、イスラエルはそのような使命を果たすどころか、なんという恐るべき罪悪をとるものになってしまっているかということですね。選民をひいきしてはいない。選民だからと言ってすべてことを見過ごしにするわけにはいかない。どのようにして、神様ご自身を証するようにしなければならなくされたかというと、この選民を罪のゆえに徹底して扱う姿を全世界に見せて神とはこういうものなのだと。耳を傾けて聞きなさい。ということは、すべての民族よ、あなたがたにおいても、偶像の罪、神から離れて己が欲のために生きるということがどれほど悍ましい結果を産まなければならなくされているかということを知りなさいということです。神様は今日の私たちを通して、神様が贖いのためにどれほどのことをしてくださるお方でいらっしゃるのか。私たちの内なる祝福をもって証したいと願っていてくださっている。そのことをしっかり受け止めて、そして神様が全世界を救うために聖霊を扱っておられる。この一つ一つのこと。自らの自戒とさせていただきながら、ミカのように神様の重荷というものを正しく理解して、そこに存在するお互いであらせていただきたいとそのように思います。

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