それでは、ミカ書1章8節〜16節、今晩学びたいと思います。1章8節、9節だけをお読みいたします。

このゆえに、私は嘆き、泣き叫び、裸足で、裸で歩く。私はジャッカルのように嘆き、だちょうのように悲しみ泣く。まことに、その打ち傷は癒しがたい。それはユダにまで及び、私の民の門、エルサレムにまで達する。

 ジャッカル、山犬のように嘆くと。ミカの「私は嘆き叫び、泣き叫び、裸足で、裸で歩く」この姿に、神様の代弁者として生きる預言者の苦悩ということを見ることができます。今日は二つのこと。

①1つは、「このゆえに、私は嘆」くとあるわけですけれども。「このゆえに」ということは、先週3節〜7節のお言葉から、神様がすべての民族に向けて「聞け」という呼びかけですけれども。本来選民であるイスラエルが、神とはこういうお方であるということを、証しする責務、義務、使命を与えていただいているにもかかわらず、偶像礼拝に現を抜かすという現実の故に、神様がどういうお方でいらっしゃるのかということを伝えるどころか、誤ったものをもって存在しているということを憂いて、神様ご自身が立ち上がって、選民のその偶像礼拝を断罪する事をもって、ご自身の聖なるお方でいらっしゃるということを証しされた。ですからこの8節は「このゆえに」という神様の立ち上がり、そしてそれによって選民が打たれるということを受けているということを理解していただけると思います。そしてその現実がどういうものであるのかということが、8節〜16節の内容で語られています。9節見ていただきましょう。このお言葉をリビングバイブル訳でお読みしてみます。

「民の傷が癒せないほど深いからだ。主はエルサレムを罰しようと、既にその門に立っている」

からだというふうに訳されているわけですね。ですから、「このゆえに」ということは、3節〜7節を受けて、神様がどのように立ちあがろうとしていらっしゃるかということを受けて、嘆きが始まっているわけですけれども。その現実的な現れというものが、この9節以降記されているということなわけですね。特に、民の傷が癒せないほど深いということのゆえに彼は泣いているということです。そして10節〜16節、これは鉤括弧が記されていますから、神様が直接語っておられるお言葉として出てくるわけです。そして神様が名指しで町々を糾弾しておられるという状況が出てきますね。そして神様が、それぞれの町々の名前を挙げて、あなたがたはこうしなさい、こうなるんだという糾弾していかれるその宣告というものは、極めて深刻であるということを知ることができます。ちなみに、10節を見ていただきましょう。取り上げさせていただきます聖句はすべて、リビングバイブルでお読みいたしますので、皆様方はこのお言葉で見ていただいたらよろしいかと思います。10節

「ガテの町は災いだ。嘆き悲しむな。ベテ・レ・アフラは悩み、恥じて塵の中を転げ回れ。シャフィルの民は身ぐるみ外されて、裸になって恥じたまま、奴隷として引かれていく。マロテの民は、これから良い時代になるだろうと望みを掛けている。だが、待ち構えているのは苦痛だけだ。主が、今にもエルサレムを打とうとしているからだ。・・・泣け。子どもたちの為に泣き悲しめ。子供たちは奪い去られ、二度と会えなくなる。奴隷として遠くの地へ連れて行かれてしまった。頭をそって嘆き悲しむがいい。」

 神様が代表的な町々の名を挙げて、そしてそれぞれの町々に対して、あなたがたはこのようにして覚悟しなさい。そして究極、奴隷として引かれて行ってしまう身になるのだ。奴隷として遠くの地へ連れて行かれてしまったという。そのような神様からの宣告が、それぞれの町々に与えられているという現実です。

②2つ目に今晩学んでおきたいことは、このミカの涙というのは、神様に仕えるものが経験するはずのもの。そして私たちにも、ミカのこの涙が今の私たちの隣人のことを思いながら、また私たちのこの国を思いながら、全世界が闇の中にいるというこの現実を思いながら、預言者が持っていたその涙。それが私のものになっているだろうかということを考えておきたいと思います。まず、涙の預言者として知られている人物はエレミヤですね。こうして学びますと、ミカも涙の預言者として神に仕えていたということを改めて知らせていただいたように思いますけれども。エレミヤの9章を開けていただきたいと思います。エレミヤ記9章1節

「ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。」

「ああ」と彼は続きますけれども。このエレミヤの涙というのは、全般に流れているものです。しばしば、すすり泣きながらという言葉が使われますけれども。彼は決して朗らかになれるときはほぼなかった。絶えずすすりなきながら。民たちに対する神様の鉄槌が下されるということに対して、ずっとそれゆえに民たちに語り続け。語っても語っても聞こうとはしない頑なな民たちとのやりとりの中で、それでもなお彼は彼らのために祈って、伝え、そして命を賭していっているという姿ですね。

 ルカの福音書19章。これは学ぶまでもなく、イエス様ご自身のお言葉になりますけれども。41節〜44節までお読みいたします。

「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。『もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらー。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」

というふうに言われています。これは、目の前に迫っているAD70年。エルサレムの町をローマ軍が包囲して、そしてエルサレムの陥落という非常に厳しい状況を見なければならなくされるということですね。そしてその日以来、全世界のユダヤ人たちが離散の民となることになります。そして1948年に再建されて、そして全世界に散らされている選民たちが次から次と帰ってくるという預言が今なっているわけですけれども。やはりなんといっても、イエスさまご自身の涙、そしてイエス様を見てエレミヤだと言う人がいたということですけれども。その魂に対する、そして雌鳥がひなを集めようとしてもあなたがたは集まるということはなかったと。今もヨハネの福音書を学んでいますけれども。頑なな律法学者たち、パリサイ人たちに対して、これでも、これでもかという状況下にあって、なおご自身の囚われる日がまだということを見計らいながら、渾身の力を尽くして語っておられるその心の中にいつも涙があったということですね。

 さらにパウロのことを見ておきたいと思います。第二コリント2章4節。

「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした」

 パウロによる第一の手紙は、非常に厳しい、辛辣なまでの露骨なまでの彼らの罪を指摘し、そしてサタンに渡す。しかし、それは肉体が滅びても魂が救われるためだという。その思いから手紙を書くという手段を取りつつ、そして訪ねる場所場所においても、涙なくして語るということはなかった。あのエペソの告別説教にあっても、あなたがたとともにいた時に、私はどれほどの涙を流しながらであったかと。そのようなことがさまざまな手紙の中に記されています。実にイエス様と、そして聖徒たちの罪を扱うという。聖霊は容赦ない扱い。それは確かに糾弾という形を取らなければならないわけですけれども。そのイエス様にしても、預言者たちにしても、使徒たちにしても、真剣勝負で魂に当たるとき、そこには涙があってのことだということを私たちは知らせていただいています。そしてその涙の苦悩をもたらす。それはこの4節の後半にありましたように、あふれるばかりの愛。愛を動機としてでなければ厳しくできない。それが神様から使命を受けて代弁者として立っている器々たちの姿勢であるということを改めて学ばさせて頂く必要があるように思います。なぜならば、究極の救い。それを求めてやまないからですね。

 そして時々礼拝でも引用させていただいていますけれども。今お開きして頂かなくても分かって頂いているお言葉ですけれども。ローマ人への手紙6章23節に「罪の報酬は死」。罪に支払われるサラリーは死だということは、これは容赦なく、全人類を飲み干そうとしている現実が今あるからだということですね。私たちはもはや、世の価値観を持って生きる者としていた生活から方向転換して、聖書的価値観を持って生きる者と変えていただきました。私たちもまた預言者として主の弟子として生きるときに、やはり隣人との関わり合いにおいて情的なものをもってしては本当に責任ある在り方は取ることができない。なぜならば彼らはみな命を賭して、そのようにある意味で受けの悪いのは当然です。そして誤解も受けることもありうる中で戦ってきて、そして今日、私たちのところまで福音が届けられているわけですけれども。このミカの「このゆえに、私は嘆き、泣き叫び、裸足で、裸で歩く。」山犬が吠えるとき、どういう声なのでしょうか。そのように嘆き、だちょうのように悲しみ泣く。それが私たちの心の中に聖霊によって愛を注いでいただきながら、そのスピリット、その姿勢。それを私たちのものとさせていただきたい。その願いが私たちの中に起こされるために、こうして聖書の御言葉は私たちに、かつてどうだったのか、先祖たちがどうであったのか。主がどうだったのかと語って頂いているお言葉から学ばさせて頂いているのではないかと思います。

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