それではミカ書2章6〜13節まで学びたいと思います。1583ページ。
2章6~7節これだけをお読みいたしますね。
「『戯言を言うな』と彼らは戯言を言う。『そんな戯言を言ってはならない。辱めを受けることはない。』ヤコブの家がそんなことを言われて良いものか。主がこれを我慢されるだろうか。これは主のみわざだろうか。私のことばは、まっすぐに歩む者に益とならないだろうか。」
13節まで学びますけれども。この6節のお言葉は一体誰の言葉か、見ておきたいと思いますけれども。これまで民たちの罪悪に痛んで、ミカは涙ながらに、1章9節にありましたけれども、「その打ち傷は癒しがたい。」その事実に苦悶しながら、彼は神様の裁きを伝える預言者として忠実でした。その彼の、神の裁きを伝えるそのメッセージを聞いた人々が、偽預言者たちを立てて、そして言っている言葉。そして、偽預言者が代弁して彼らの民たちの言葉を気持ちを、言っているということなんですね。
この6節、ばかばかしいとして憎んでいる彼らの言葉、ということになりますけれども「戯言を言うな」これはミカに対してのことですね。で、そんな戯言を言ってはならない。辱めを受けることはない、と彼らは言っています。ここに、頑なにも誰の忠告をも聞こうとはしない、罪に身を委ねる者の惨めな抗議の言葉として私達は見ることができます。
そのヤコブの家、7節はヤコブの家、となっていますし、12節は神様の言葉ですけれども「ヤコブよ」というふうに言っています。この時「ヤコブの家」とか「ヤコブ」と言った場合は、南北すべての民に対する呼びかけですけれども。その彼らに対して、預言者ミカがどのように対応したか、ということを学んで今晩のお言葉としたいと思います。2つの面から。
➀一つは、民に対する彼の個人的な見解を持って、またしても戒めなければならなくされているのが、7節の言葉なんですね。この7節の言葉をリビングバイブル訳で読んでみます。「ヤコブの家よ。それは正しい答え方だろうか。主の御霊が、好きでそんな荒々しい話し方をすると思っているのか。そうではない。その脅しは、あなたがたの為、正しい道に立ち返らせる為のものだ。」そういうふうに訳されていますけれども。そのほうが7節の訳を正しく理解させていただけるのではないかと思いますけれども。彼らの致命的な過ちを指摘して、戒めている。これはミカの言葉です。
これは罪に対する神様の扱いを聞いた民の恐るべき無知というものが、彼らをして、ミカの預言に対して、戯言を言うな、ばかばかしいことだと言っているわけですけれども。その彼らは、神様の裁きは不当なんだ、と言いたいわけですね。そして裁く神様が悪い。そして、あくまでも私たちは正しいとする愚鈍さ、ということです。
ミカは決して神様から託されたメッセージを引き下げることなく、水増しすることなく、神様が伝えなさい、と言われた通りの事を伝えた彼の責任感。そして彼らの過ち、それはとんでもない、あなたがた自身が戯言を言っているんだ、ということを言って戒めているということですね。
私達は決して、真理のお言葉に堅く立つ時、また、真理のお言葉によって伝えなければならなくされている時、それを聞く人たちがどのような態度でそのことを否定してかかり、そしてとんでもない過ち、そのように言うのは神が悪い、私達は決して悪くはない、そういう出方、それにミカは決して怯むことがなかった。そして私の言葉はまっすぐ歩むのに益とならないだろうか。まっすぐ歩む道に益となるようなことしか私は伝えていない。はっきりと彼は、自らのメッセージに対して弁明しています。
②もう一つの点は、神様を完全に見誤っている民たちに対しての神様からの直接的なメッセージを伝えることを持って、彼らを戒めているということを8~13節のお言葉で見ておきたいと思います。
まず8節前半を見ていただきましょう。これはまさに神様のお言葉ですね。リビングバイブル訳では、この8節の冒頭に「それなのに、今この時までわたしの民は、わたしに反抗している」というふうに言っておられるということです。「それなのに」ということは彼らの罪悪に対してはっきりとした断罪をし、糾弾している。その事実、それはあなたがたを悔い改めに導いて、正しい道に導くためのものに他ならなかったのに、それなのに、今に至るまでわたしの民はわたしに反抗している、と神様は言っているということを伝えているわけですね。
その実態というものを見ておきたいと思います。8節の後半に「あなたがたは、豪華な上着をはぎ取る。安心して通り過ぎていく者、戦いから帰って来る者たちから。」豪華な上着をはぎ取る者だ、というふうに糾弾されています。これもリビングバイブル訳でお読みしていますね。「あなたがたを信頼し、安心して歩いている者の背後から上着をはぎ取ってしまっている。」この「あなたがたを信頼し」ている、ということは、やはり6節で学びましたように、民たちが偽預言者たちに通告して、そして、このように言ってほしい。そして偽預言者もそのように思っているから、ということもありますけれども。その民たちというのは、ミカに対してではなく、偽預言者に信頼しているということは、こういう関係でも見ることができるわけですけれども。あなたがたを信頼し、安心して歩いている者の背後から上着をはぎ取ってしまっている、とそのように言及されています。
さらに9節のところですけれども「あなたがたは、わたしの民の女たちを、その楽しみの家から追い出し、その幼子たちから、わたしの誉れを永遠に取り去る。」ということです。この訳はリビングバイブル訳によりますと、「未亡人を家から追い出し、その子どもたちから神が与えた権利をもぎ取ってしまっている。」というふうに訳しているんですね。「子どもたちから権利をもぎ取ってしまっている」とはどういうことを意味するかと言いますと、結局、南にしても北にしても、やがて、アッシリアあるいはバビロンによって、捕囚の民として憂き目を味わわなければならなくされてしまうわけですね。大人たちのゆえに子どもたちが犠牲を強いられてくるということを意味するわけですから。結局大人たちの神様に対する反逆、不服従、偶像礼拝を持って神に対して裏切り行為を行う。その結果、彼らは異教の地に連れて行かれることになるわけですけれども。子どもたち、なんの責任もない子どもたちが、本来だったなら神を礼拝する者としての生活を送ることができる国に居ることができていたのに、彼らから神様を礼拝するその礼拝の生活を奪い取ってしまうことによって、わたしの誉れを永遠に取り去ってしまっているということですね。子供たちは親の犠牲によって、せっかく神を礼拝する民の中に生を受けているのにもかかわらず、子どもたちの罪のゆえにではなく、大人たちの罪のゆえに、彼らは異郷の地に連れていかれることになり、そこでの痛み、それを子どもたちに強いることになり、そして神様を礼拝する、その心すらも、もぎ取ってしまうようなことになってしまう。そのことを言っているわけですね。どれだけあなたがたの責任、罪過というものは、恐るべき罪がそこにはあるんだと言っています。
さらに10節ですね。「さあ、立ち去れ。ここは憩いの場所ではない。ここは汚れで滅ぼされるからだ。それはひどい滅びだ。」と言っています。本来でしたならば、アブラハムがあの時からカナンの地、聖なる地、神様を礼拝する民たちによって支配されるべきその地が、偶像礼拝のために、もはや神との交わりの憩いの場所ではなくなってしまった。神と交わるところではなくなってしまった。ここは、その汚れ、罪過のために滅ぼされなければならなくされるからだと。そしてその滅びというのは、ひどい滅びを受けることになる。壊滅的な滅亡、そこに迎えることになるからだ。立ち去れ、ということを言われてしまっていますね。道徳的汚れによって、みな、聖地から追放されなければならなくされるということが、実際的な罪悪として訴えられています。
さらに11節ですね。「もし人が風の赴くままに歩き回り、『私はあなたがたに薦めよう。ぶどう酒と強い酒を』と偽って言うなら、その者は、この民に戯言を言う者だ。」と言っています。これもリビングバイブル訳が非常にわかりやすいのでお読みしてみますね。「酒の喜びについて説教しよう。というのが、あなた方の好きな飲んだくれの偽預言者だ」こういうふうに言われています。ここには、預言者が一体、説教しようとする時、何についてのことかということですね。もはや神の言葉ではなく、酒の喜びについて説教しよう、というほどの霊的堕落ぶりというものがはっきりとこうした中で言及されています。
預言者としてミカは、あなたがたに預言した預言は、それは、あなたがたまっすぐに歩む道に益となる、そのためであるにも関わらず、あなたがたにとっては、そんな馬鹿げたことがあろうか、と言って退けてしまっている。彼の見解をそのように受け取って後、神様がその民たちに対してどういうことを思ってらっしゃるか、言っておられるか、ということを語っている部分を学びました。
さらに神様は、驚くべきことですけれども、ここまでのことをはっきりと罪は罪として言及して、あなたがたはやがてこうなると、手の打ちようのないことになってしまう、ということを言っておられるわけですけれども。12,13節見てみたいと思います。「ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。打ち破る者は彼らの先頭に立って上っていく。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、主が彼らの先頭を進む。」と。神様が、8~11節と、彼らを糾弾しています。そして、あなたがたはなんという罪悪のためにここから立ち去らなければならなくされるか、ということをおっしゃってらっしゃるんですけれども。打って変わった状況がこの12、13節に出てくるわけですね。私達には本当に驚きとしか見ることができない言葉ですけれども、神様からここまで言われている彼らに対して、ヤコブよ、と声を掛けられて、神様からのやがての約束、解放の約束、素晴らしいことですけれども、わたしは彼らを囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして人々のざわめきが起こる。このざわめきというのは、喜び、歓喜が起こる、ということをおっしゃってらっしゃるわけです。囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、あの詩篇23篇、あの麗しい羊飼いと、牧者と羊たちとの交わり。それがもう一度あなたがたのものになるんだということをおっしゃっていらっしゃるわけですね。
そしてそれらの群れの先頭に立っているのは、主ご自身でいらっしゃる。まさに羊の前の先に歩まれるイエス様の姿がここに描かれているわけです。これは、あり得ない、あそこまで糾弾し、一体あなたがたは、子どもたちの権利をさえ奪い取ってしまう、もうあなたがたに対しては、壊滅的な破壊が待っているだけのことをあなたがたはしているのだ、ということを言っているわけです。実際に、アッシリアによる痛手、そしてバビロン捕囚による痛手があります。しかし、最終的には、両国の残れる者たちを残して、そして祖国に帰して、もう一度神様との交わりの回復するのだということを言っておられるということです。
なぜここまでのことを言ってくださるお方なんだろうか。昨日、ヨエル書を学びました。ヨエル書の3章19節のお言葉に特に目を留めました。1558ページですね。これは南ユダが痛く神様に扱われて、そしてエジプトとエドムの手によって暴虐を受けることになるわけですけれども。しかし、神様の愛がなんと驚くべきことなのか、ということで19節の最後の言葉を学びました。「彼らはその地で、咎なき者の血を流した。」という言葉なんですね。この言葉の深い解釈は、神様が罪ありとして裁かれた者を罪なき者とした、その民の血をあなたがたは流した、ということで、エジプトとエドムはユダの人々への暴虐のために裁かれることになるという言葉です。私達は、ユダの人々がどれほどの、神様に対する背信の罪のために打たれなければならなかった、ということを知っている者として、なぜ彼らを咎なき者の血を流したと言ってエジプトとエドムの人に言うのだろうか、と思うところですけれども。この言葉の意味は、咎ある者としてみなしていたものだから、暴虐を受けるというような憂き目を味わうことにはなったけれども、しかし咎なき者、咎ある者とされていた者たちを、咎なき者とみなして、そして彼らに対して血を流した、ということで裁かれるということです。私達は明らかに神様の前に罪人です。そして罪ある者として本来、罪の報酬は死を受けなければならない者。神様は罪ある者として私達を認めたからこそ、認めざるを得なくされているからこそ、罪の報酬は死。これは決定的なもの。しかし、神の賜物は、と言って、キリストの血によって、その者を罪ない者とみなす。罪のない者としてみなした者だ、と言っていただける。私達はこうしたお言葉を見る時に、罪人として死に定められていた者だった、ということを忘れてはならない。しかし、死に定められていたはずのものが、ただキリストの血によってのみ罪なき者としてみなしていただける、という関係にしていただいている。これはただ事ではない。このことに聞き慣れてしまってはならない。本来そういうべきものが今は、ということですね。ですから、ミカを通して神様が、ヤコブよ、と呼びかけておられるお言葉を伝えるときに、確かにはっきりと、あなたがたは悪の民、ここから追い出されなければならなくされる。しかしヤコブよ。私はあなたを必ずみな集めて、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める、という時を迎えることになる。そうわたしはすると。ですから、ことごとく悔い改めて砕かれた悔いし心で神様の前に出さえするならば、そこにはいつでも回復の恵みがある。これは過去の一切を葬ってしまわれるお方。いつまでもいつまでも私達の罪悪を記憶に留めて、あなたはあの時こうだった、ああだった、とはおっしゃらない。悔い改めた時点で完全に罪なき者とみなして、その後の歩みを共にしてくださる。その後の歩みも、誘惑のゆえに罪を犯したならば、その都度悔い改め、きよめの信仰に立ち続けていくならば、過去、今までの過去を完全に葬って、新たにして罪なき者としての関係を持っていってくださる。神様は本当に愛のお方でいらっしゃるということは、己の受けた傷を数えない。完全に忘れて、己を捨てて私達を本当に無償の愛を持って愛してくださるお方でいらっしゃるということです。このことはいつも私達が心に留め続けて謙虚であり続けなければならないメッセージではないかと思います。罪人であるお互いのなすべき分というのは、いつでも主への礼拝の心。そこを持ち続けさせていただきたいと思います。
