ミカ書3章8節「しかし、私には力が満ちている。主の霊によって、公正と勇気に満ちている。ヤコブにはその背きを、イスラエルにはその罪を告げる。」

今晩は、このミカ書の3節全体を学んでみたいと思います。

3章1節から「聞け。ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を知っているはずではないか。」また9節でも「これを聞け。ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を忌み嫌い、あらゆる正しいことを曲げている。」ミカはこれまで同様に、3章、4章5章と、こうした「かしらたち」、指導者たち、それは南北両国の光芒の鍵を握る人たち、この人たちに対して根気強く説教しているわけですけれども。今晩は、この3章8節、このように根気強く説教し、たしなめていくミカにとって、命となる言葉、それが8節だということを学んでみたいと思います。

「しかし、私には力が満ちている。主の霊によって、公正と勇気に満ちている。ヤコブにはその背きを、イスラエルにはその罪を告げる。」

というふうになっています。このような働きを一体誰が担うことができるだろうかと。パウロ自身、様々な苦境に立たされながらも、牧会と宣教の働きの中で恐れを感じながら神様の御用に立っていたという言葉があります。このミカにとっても、そのような働きをしていく上において、しかし私には力が満ちている。主の霊によって、公正と勇気に満ちている。それが彼にとっての生涯的な鍵となる言葉であるということをまず申し上げておきたいと思います。何度も繰り返して見ていますけれども、1章8、9節見ていただきましょう。

1章8、9節「このゆえに、私は嘆き、泣き叫び、裸足で、裸で歩く。私はジャッカルのように嘆き、だちょうのように悲しみ泣く。」なぜならば「まことに、その打ち傷は癒しがたい。それはユダにまで及び、私の民の門、エルサレムにまで達する。」からだ、というふうに学んできました。彼の「私は嘆く」悲哀の思いを吐露しているお言葉ですけれども。実に彼が泣く預言者だったというふうに学んだ時、エレミヤと似た面があるということを申し上げていました。特にエレミヤの20章を開けていただきたいと思います。エレミヤ記の20章1326ページ。20章7~11節までお読みしてみます。「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります。私は、語るたびに大声を出して『暴虐だ。暴行だ。』と叫ばなければなりません。主のことばが、一日中、私への嘲りのもととなり、笑いぐさとなるのです。」神様のメッセージを語れば語るほど彼はこのような苦境に立たされていくということを、嘆きながら言っているわけですが。「私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない。』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。」もう語るまい、そのように決意しているものの、心の中に語られてきている聖書のお言葉、神様からのメッセージ、それをしまい込んでおくということはとてもできなくなってしまうという。非常に彼は矛盾と戦っているわけですね。そうしたいができないと。そして10節「私が、多くの人のささやきを聞いたからです。『『恐怖が取り囲んでいる。』と告げよ。われわれも彼に告げたいのだ』と。私の親しい者もみな、私がつまづくのを待ち構えています。『たぶん彼は惑わされるから、われわれは彼に勝って復讐できるだろう』と。しかし、主は私とともにいて、荒々しい勇士のようです。」

先ほどミカの、神様から託されたメッセージを指導者たち、民たちに語るという時に経験する苦悩の中で、非常に苦しみ涙し、嘆き、そして神様の前にそのような弱さを吐露しなければならない彼でした。しかしそのような中での鍵が、3章8節だと言って読みました。「しかし私には力が満ちている。主の霊によって、公正と勇気に満ちている。」ここでもエレミヤが、そのような状況下に置かれた時「しかし主は私とともにいて、荒々しい勇士のようです。ですから、私を迫害する者たちはつまずき、勝つことができません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、忘れられることのない永久の恥となります。」エレミヤもミカも涙しながら、しかし、エレミヤははっきり言っていますように「もうこれ以上語るまい」語るということは、私にとって、このような状況下におかれるということは耐え難いことだと言うふうに決意しても、語らざるを得なくされていく神様からのメッセージ。そして彼は立ち上がった時に、「しかし、主は私とともにいて、荒々しい勇士のようだ」という信仰に立たせていただいて、「ですから、私を迫害する者たちはつまずき、勝つことができ」ないと。そのように確信しているわけですね。重荷のゆえに耐え難く、泣き明かすような状況下にあっても、預言者たちは立ち上がらせていただいている。もう一度ミカ書に戻りますけれども。その中で「しかし私には力が満ちている。」そのように告白させていただいているということは本当に素晴らしいことです。彼らは、神様との関係においていよいよ力、弱さの中で力づけられていくということを現実的に経験している器たちだということに励まされるのではないかと思います。

そして今晩はミカに「しかし」というその信仰を奮い立たせた、実際はどのようなことにおいてだったのかということを2つ学んで今晩のお言葉としたいと思います。

➀その一つは、指導者たちの腐敗ぶりの中で立ち上がらせていただいた信仰だったということなんですね。先程お読みいたしましたけれども、1節で「聞け。ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を知っているはずではないか。」同じように、先程9節も見ましたけれども、2節見ていただきますと、「あなたがたは善を憎んで悪を愛し」ている。公正を知っているはずではないか。それであるにもかかわらず、というところですが、その有り様はどういうことか、といいますと、2節の後半に「人々の皮を剥ぎ、その骨から肉をそぎ取る。」そして3節「わたしの民の肉を食らい、皮を剥ぎ取って、骨を打ち砕き、鍋の中のもののように、また大釜の中の肉切れのように、それを切れ切れに裂く。」恐るべき表現がここになされていますけれども、我が民をそうしている。さながら人食い人種の手口で民たちをあしらっているという残忍さ、ということですね。指導者たちこそ、公正がどういうことなのか、ということを神から直接的に教えていただいているはず、そして本来そこに生きているはずのあなたがた、あなたがたがしていることといえばまったく逆のこと。善を憎んで悪を愛してしまっている。その実践していることといえば、2節後半、3節で読みました、人食い人種たちがするようなことをあなたがたは民たちに対してしまっているということです。主の評価を見てみますならば、5節ですね。「預言者たちについて、主はこう言われる。『彼らはわたしの民を惑わし、かむ物が歯にあれば『平和があるように』と叫ぶが、口に何も与えない者には聖戦を布告する。』」ということですね。食べるものが与えられた時、与える者たちに対しては、平安があるように、と言うけれども、何も持ってこない貧しい人たちに対しては、聖戦を布告するとはどういうことなんでしょうか。自らの強欲を満たす者に対しては「平和があるように」と叫ぶけれども、まったく優遇するというようなことのない人たちに対しては、脅かししかない独裁者となってしまっている、という神様から言われている、評価されているということです。

そして、9節も同じ言葉だと申し上げましたが。「これを聞け。ヤコブの家のかしらたち。イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を忌み嫌い、あらゆる正しいことを曲げて」しまっているものだ、ということですね。そしてその最たる嫌悪すべき醜態というのは、ここでも11節の後半を見ていただきたいと思います。そうですね、11節お読みしますね。「そのかしらたちは賄賂を取ってさばき、祭司たちは代金を取って教え、預言者たちは金をとって占いをする。」神様に特別な配慮をいただいている指導者たちでありながら、それでも足らずとして教えるその都度、代金の支払いを請求し、そして金を取って占いをするという恐るべき金銭欲、ということですね。そして、そのようなことをしながら、ですけれども。「しかもなお、彼らは主を当てにして、『主は私たちの中におられるではないか。わざわいは私たちの上に及ばない』」と言い切ってしまっている不届き者だということなんですね。指導者たちが、そのようなことをしていることに対して何ら良心的な咎めがない。そのようなことをしている時、少しの痛みも感じない。それでいて、主を当てにして「主は私たちの中におられる」ということをまるで確信して言っているわけですね。このようなことをしたからといって、なんらわざわいを被るというようなこと、それは私たちに及ぶはずがないという高の括り方です。この「しかもなお」ということを受けている10,11節非常に放置することができない。

先程11節見ましたけれども、10節のお言葉では「流血でシオンを、不正でエルサレムを建てている。」シオンという町は、聖なる都として聖別された場所。礼拝が厳かに行われるべき聖別された場所で平気で流血、さばきが行われているという。そしてこのエルサレムもまた聖なる都であるべき所。そこで不正でエルサレムを建てている、という。この罪に対して全くの無感覚でいられている、というふてぶてしさ、ということです。これだけのことを行っていながら、なぜ、そして聖書を教えていただいている、律法を持っている、教えている立場でありながら、これほどまでのことでないにしても、良心的な咎めというものは、ちょっとした光に対しても感じなければならない。感じてその都度悔い改め、神様の前に出直す、ということをしていかなければ、率先していかなければならないはずの彼らが、これほどまでのことをしながら、全く無感覚になってしまっているということの恐ろしさですね。

ミカは、これまでも同じように、またしても指導者たちに対して、こうした現実を明らかにしていかなければならない。もう一度8節を見ていただきますならば、8節の後半にありますように「ヤコブにはその背きを、イスラエルにはその罪を告げ」なければならない、というこの厳かな使命、責任、これを果たす。とてもではない。本当にこれまでの戦いの中でどれほどの無力さ、語っても語ってもびくともしない人たちを相手に、そのような中で彼は、「しかし私には力が満ちている。主の霊によって公正と勇気に満ちている。」嘆きの中からこのように立ち上がらせていただいているのは、内住の聖霊によってなんだと。はっきりと言っているお言葉ですね。

②そして彼がこのような信仰に立たせていただけているのは、2つ目ですけれども、神様ご自身の、頑なな彼らに対するお扱いに委ねる事ができているから「私はしかし」と言って立ち上がらせていただけているんだ、ということで学ぶことができます。

4節を見ていただきましょう。「そのため彼らが主に叫んでも、主は彼らに答えない。そのとき、主は彼らから顔を隠される。彼らの行いが悪いからだ。」この「そのため」という言葉は、1~3節を受けています。先程見ました、人食い人種のようなことを民たちに対してしている。「そのため」彼らがどんなに、良心的咎めも持つことなく、無神経で高をくくっているような者たちが、主に叫んだとしても主は彼らに答えない。神様の御顔が隠されるということほど恐ろしいことはないわけですけれども。ミカが一人で戦っているのではない。ミカは神様から伝えなさいと託されたメッセージを伝えるだけ。後は神様が彼らを正しく公正に扱ってくださるから、それで彼は主に対する全幅的な信頼を持って結果がどうであれ、彼らが動こうともしないような状況を見せつけられることがあって淡々と従う。神様に従わせていただけることができると彼は言っているわけですね。神様が彼らに対して適切に対応してくださるという確信があるということですね。

さらに6、7節見ていただきましょう。ここでも、5節の言葉を受けて「それゆえ、あなたがたには、夜にも幻がなく、暗闇にも占いがない。太陽も預言者たちの上に沈み」この預言者たち、というのは指導者たちですね。偽預言者たちですね。「昼も彼らの上で暗くなる。先見者たちは」これもそうですね。偽預言者たちですね。「恥を見、占い師たちは屈辱を味わう。彼らはみな口ひげをおおう。神の答えがないからだ。」神様は、預言者たちがどのように高をくくっていたとしても、神様はそれらを見ておられないはずがない。ですから、彼らがどんなに神様に願って幻を求めたとしても、占いに答えを与えていただく、というような態度をとったからといって、神様が彼らの一つ一つの求めに答えるということは全くない。7節のところでは「神の答えがない」という現実を言っています。

さらに、12節ここにも「それゆえ、あなたがたゆえに」と記されています。やはりこの「それゆえに」ということ。9~11節まで、正々堂々と悪を行いながら、神様は私たちとともにおられる。私たちの中におられる。神様は私たちにわざわいを及ぼすということはない、ということを言っている。だから、「あなたがたゆえにシオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。」というふうに言っています。12節は、結局、神の栄光はあなたがたから完全に去ってしまい、あなたがたにふさわしいのは、廃墟と化する、ということを目の当たりにしなければならない、という現実だ、ということを言われています。やはり、ガラテヤの6章にあります、肉によって蒔く時、滅びを刈り取る。肉のために、肉を満足させるということためにひたすら求めていく時、肉を求めていく時、必ず滅びを刈り取らなければならない。それは神様の霊の法則だ、ということです。こうした闇はなお続きますけれども、しかし彼はしっかりと、しかし私には力に満ちている。主の霊によって公正と勇気に満ちている。これはミカ自身が何者かの賜物がある、特有の何かが秀でている、ということのゆえにではなく、その力というのは、聖霊による力ですね。泣く時、彼は本当に自らの弱さを神様の前に洗いざらい告白しながら、そしてそのような弱さの中にのみ働く神様の力。そして神様はパウロを通して、私たちに言葉を残してくださっていますけれども、弱いという時にこそ、強い。神様の力が最大限に発揮する場所となるのが、弱さを自覚しているその場所だからだと言っていただいています。泣くこともあったとしても、その所に神様の臨在は特に、現してくださって、このミカを立ち上がらせ、そして力に満たしてくださる。その信仰が神様によってだ、ということ。神様が全責任を持って処理しておられる。神様がそれを黙って見ておられるはずがない。ミカはその指導者たちの外側に目の当たりにさせられる傲慢な態度。弱さを感じるようなことがあっても、微動だにしないで立ち上がらせていただける鍵がここにあるんだということを私たちに教えていただいているのではないかと思います。。

TAGS