それではミカ書の2章1節~5節をお読みいたします。
ミカ書2章1節「わざわいだ。不法を謀り、寝床の上で悪を行う者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々を取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る。それゆえ、主はこう言われる。『見よ。わたしはこういう氏族に、わざわいを下そうと考えている。そこからあなたがたは頭をもたげることもできず、胸を張って歩くこともできなくなる。それは、わざわいの時だからだ。』その日、あなたがたについて嘲りの声があがり、嘆きの歌が起こって言う。『われわれはすっかり荒らされてしまった。私の民の割り当て地は替えられてしまった。どのようにして私から移され、われわれの畑が背信の者に分け与えられたのか。』それゆえ、主の集会には、あなたのためにくじを引いて測り綱を張る者がいなくなる。」
先週は、ミカをして涙を流させたのは、神様に対する民の癒しがたい罪悪のゆえであったと学びました。その罪悪というのは、極めて厳格に扱われなければならないものだから、ということ、今晩学んでみたいと思います。3つのこと。厳格に扱われるということですけれども。
➀まず、1節でミカが、民に対して「わざわいだ」というふうに糾弾し始めています。「わざわいだ」とミカが言うときには、いつも、聖書的根拠に基づいてのこと。単なる人間的な尺度で考えて、これは悪い、というそういった次元のものではなく、いつでも、糾弾ということは、聖書の御言葉に根拠があって、その御言葉に基づいて、悪善をそれを私達は決めるということを知っています。わたしたちも単に、個人的な感情の問題でよしあしを見るのではなく、いつも聖書的根拠に基づいて神様のものさし、それこそが善悪ということを明らかにするものであって、私達のそれぞれの良心というものは歪んでおり、人によって決して同じではない、ということを知っています。ですからいつでも聖書的根拠というものに基づいて良し悪しを判断するということ。それは私たちの基本的な姿勢ですね。
民の実際というものは、どういうことだったのか、ということを1、2節で見ておきたいと思います。1節に「不法を謀り、寝床の上で悪を行う」という表現があります。リビングバイブル訳を見ますならば「寝床の上で悪を行う」ということは夜中に、寝ているはずの時間を「寝床で悪事を企む者」そして「自分たちの手に力がある」からだ、というふうになっているんですけれども。それは、富裕層の実力者たちがそうだというふうに言っています。そして彼らは、夜、寝ずに悪巧みを考える。それを朝の光とともにこれを実行する、というふうにあります。起きるやいなや、寝床で考えた悪だくみを実行に移すということですね。その内容は、実に無抵抗者たちに対する恐るべき、力ずくの略奪、ということは、2節に記されています。この2節リビングバイブル訳で読んでみますね。「人の土地や家を欲しがり、それがその人の財産すべてなのに、詐欺と脅かしと暴力でそれを取り上げてしまう。」ということですね。これはまさに、聖書でモーセの十戒にありますように、貪りの罪という問題があります。隣の妻を欲しがってはならない。妻のみならず、財産のすべてですね。
特に貧しい者たちに対する扱いについては、聖書は厳重な警告を与えています。まず詩篇109篇開けていただきましょう。詩篇109篇31節「主が貧しい人の右に立ち 死を宣告する者たちから彼を救われるから」だ、というふうにあります。貧しい人たちは、いつの時代においても虐げられ、そして持てるものこれがすべてだ、というようなものも容赦なく奪い取られていく、無一文になる、おまえは生きるな、ということと同然のことを富者たちはする、ということですけれども。しかし、神様はいつも貧しい人の右に立って、そして救出されるという約束が与えられています。
申命記15章開けていただきましょう。342ページ、7節~9節のお言葉をお読みしてみたいと思います。
申命記15章7節「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みの中ででも、あなたの同胞の一人が貧しい者であるとき、その貧しい同胞に対してあなたの心を頑なにしてはならない。また手を閉ざしてはならない。必ずあなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。あなたは心によこしまな考えを抱き、『第七年、免除の年が近づいた』と言って、貧しい同胞に物惜しみして、何も与えないことのないように気を付けなさい。」
ヨベルの年が来たならば、それまでに貸していたもののすべてがその者に与えられたままの状態にあるように、という富者たちに対する特別な神様の取り決めが与えられています。そうなってしまったならば、ということで、その日が近づいたならば決して与えないとする、なぜならば返ってこないから、ということで、そういったことがないように気をつけなさい。「その人があなたのことで主に叫ぶなら、あなたは罪責を負うことになる。」断罪される、ということなんですけれども。これほどまでの貧しい人に対して手を開くようにと、これは頑なにしてはならない、そうしなさい、と命じていっらしゃることですけれども。略奪ということになるならば、もってのほかだ、ということになるのではないかと思います。先程リビングバイブル訳をお読みしましたけれども、その人の土地、家を欲しがる、それがその人の財産全てなのに、詐欺と脅かしと暴力でそれを取り上げるという罪悪ですね。これが富者たち、自分たちの手に力があるからだ、という実力者たちが平気でそのようにしてしまっているという現実。それがミカにとって心痛ましいことであり、そしてこのことが神様の目に放置されるままになるはずがない、ということで、彼らにこのような警告を与えているわけですね。
②2つ目のことは、先程のお言葉に戻らせていただきます。2章3節「それゆえ、主はこう言われる。『見よ。わたしはこういう氏族に、わざわいを下そうと考えている。そこからあなたがたは頭をもたげることもできず、胸を張って歩くこともできなくなる。それは、わざわいの時だからだ。」と言っておられます。ここに「わざわいを下す」そしてわざわいの時が満ちたということをおっしゃっていらっしゃるわけですね。神様が突如としてそのようなことをなさるというお方ではなく、いつでも、あらかじめ警告を与えながら、民たちを指導してきておられるお方だということは、もうどのページ預言者の書においては絶えずそのような警告というものを与えながら、そしてついに、従おうとはしないということに対して鉄槌をくださざるをえなくされる、というのがいつものパターンですね。
先程申命記お開きいただきましたけれども28章を開けていただきましょう。申命記28章はかなり長い章になりますけれども。たった2つのこと、その二つの事と言いますのは28章、今、1節~14節の所を見ていただきますならば、この1節に記されていますように「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。」というふうにおっしゃってらっしゃいますね。それが、もし聞き従うならば、こういう祝福がついてくるという約束です。
ところが、15節から最後まで、かなり長い内容になりますけれども。「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。」これがずっと、しかし、守らなかったならば、という言葉になるわけですね。「あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの胎の実も大地の実りも、群れの中の子牛も群れの中の子羊ものろわれる。あなたは入るときにものろわれ、出ていくときにものろわれる。主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと混乱と懲らしめを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、たちまちにして滅びる。これは、わたしを捨てたあなたの行いが悪いからである。」ずっと続くわけですけれども。
神様はもうすでに、これはまさにモーセが昇天前に8つの説教をした、ネボ山での内容ですけれども、過去を顧みながら、どの時点でも神様が、もし従うならば、しかしもし従わなかったならば、といつもその旨をはっきりと示しておられます。いつの時代でも、どちらを選ぶか、ということは、その民たちの自由意志に委ねられているんですけれども。私たちにおいてことごとく神様の御心に、心から喜んで従わせていただくというその選択、そこにだけ神様が祝福を命じておられるという。突発的に何か突然行われるということではなく、長い間忍耐して待っていらっしゃる神様の忍耐という。
ホセア書においても、わざわいを宣言なさりながらも、それを思い直されたり、また宣言なさりながら、またしても思い返したりと、そしてついに北イスラエルはアッシリア帝国に滅ぼされてしまうという末路を迎えることになるわけですけれども。神様が絶えずこのような警告を与えられている間に、しっかりと聞かせていただくということの重要性をここで語っていただいていると思います。
③そして3つ目ですけれども、ここでミカが警鐘を鳴らします。それが4、5節ですね。「 その日、あなたがたについて嘲りの声があがり、嘆きの歌が起こって言う。」 これは、敵国が神の民の災いを見て、そして嘲り笑いながら、そしてそのように言うということになる、と言っているわけですけれども。そして「『われわれはすっかり荒らされてしまった。私の民の割り当て地は替えられてしまった。どのようにして私から移され、われわれの畑が背信の者に分け与えられたのか。』」
この5節のところをリビングバイブル訳でお読みしてみますね。「その時には、他人があなたがたの境界線を決める。『主の民』は連れ去られた所に住むようになる」とは、なんという屈辱の予告であろうというふうになっています。どのような嘲りの声を聞かなければならなくされたとしても、この予告には、民の側にまったく弁解の余地など微塵もない。聖書の真理はやはり、自ら蒔いたものを必ず刈り取らなければならないという真理の法則があるのみだ、ということです。
重ね重ねの神様からの警告というのは、ひとえに、神様の側からのあわれみであって、そして神様がそのように警告を与えて頂いている間に聞く、ということが私たちには救いそのものですね。
この1、2節に記されている富者たちの、貧しい者たちを虐げるというのは、古今東西どの時代においてもなされていることであり、そして今の時代においてもそうであるということです。実際に神様がそのような状況を、まるで見ておられないかのように見受けられる現実というものが多々ありますけれども。しかし神様がそれを放置しておられるということは決してありえない。神様は時至って、ご自身が戒めを与え従うときにだけ祝福がある。本来、今までも学んできましたけれども、イスラエルの民たちが、神様に従うことによってどれほどの祝福にあずからせていただいているか、ということをデモンストレーションするために選ばれているにもかかわらず、結局彼らがどういう、彼らの前に自分たちを晒して来てしまっているのか、と言いますと、神様ご自身が彼らを打つということによって神様の正しさを証しなければならなくされるほど、彼らは、どの時代においても結局彼らは「世界の祝福の基となりなさい」という命令が与えられているにも関わらず、そういう見本を持って全世界に宣教をするというときがなかった。
結局は彼らが従わなかったために、結局のところ、嘲りの声を聞かなければならなくされる。そして皮肉にも、どうしてこのようになってしまったのか、笑いの種になってしまうような状況を彼らが迎えなければならなくされているということです。
私たちに必要なのは、ミカの涙であるということを先週学びました。そしてその涙の原因は、私たちの隣人が悪に走ってしまっている。そしてどんな言葉も聞こうとはしない頑なさ。その一人ひとりの現実を私たちが見るときに、私達の感覚で良い悪いではなく、いつでもミカが、預言者たちがそうであったように、まさにこの2節は、十戒の「貪ってはならない」という罪を、真っ向から背いて行ってしまっている民たち。いつも私たちが聖書の御言葉の光に従って、これはまさに悪であり、罪悪、罪、そしてそれは隣人に対してのもので終わるのではなく、彼らのしていることはそれらの掟を定めておられる神様に対する反逆、罪。私たち対人関係における様々な問題も、人との関係で終わるものではなく、神様が全人類に、私たちに定めておられる御言葉を守らない、それは人に対してしている悪そのものですけれども、それは真理の御言葉を与えておられる神様に対する反逆、罪悪として神様ご自身が裁かれるということですね。
ですから、まず、詩編の「右に立っておられる」右というのは力そのもの、ですけれども。私たち貧しい者として立っている限り、神様ご自身が力そのものとなって、その者に対する仕打ちすべてを神様ご自身のものと受け止めて、神様に対する罪として認めて、そしてご自身が、私たちによって、ではないですね。わざわいを下そうと考えて、こういう氏族、私たちには力があると誇る者に対してそのように考えておられる。それはわざわいの時が満ちたからだ、ということです。事が何も動かないように見受けられる時でも、神様の側では、絶えず、貧しい側に立って時を見図らないながら、ご自身の手を打たれるお方でいらっしゃるということですね。ですから、私たちが個人的な感情、様々な誘惑としてあるかもしれませんけれども。やはりパウロがローマ書12章で語っていますように、復讐は神に委ねる。怒りは神に委ねる。私たちのすること、というのは、人との関係、どのような状況下にあっても、それのために何かをしなければならないというようなことではなく、いつもこのところ学んでいますように、私たち自身が神の側についている限り、神が全責任を持って時至ってことを行われるお方だ、ということです。
先ほどのの申命記28章では、「もし従えばこのような祝福があなたに付きまとう。しかしもし従わなかったならばのろわれる。」そしてついに、この5節のところでは、先程のリビングバイブル訳を見ますならば、「その時には他人があなたがたの境界線を決める。主の民は連れ去られた所に住むようになる。」これは神の民として、極めて屈辱的な結末を迎えなければならないということです。
いつでもミカの姿勢、そしてミカを遣わしておられる神様ご自身がどのように考えておられるのか、そのような視点で御言葉を学びながら、私たちのあるべき姿勢というものをしっかりとそこに定めてお従いさせていただきたいと思います。
