「モレシェテ人ミカにあった主のことば。これは、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、彼がサマリアとエルサレムについて見た幻である。」
ミカの預言者としての活動は、いつからであったのかということをまず確認しておきたいと思います。イザヤ書1章1節。「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」とあることから、イザヤよりも若い年代層になりますけれども。
ホセア、アモスと共に、同時代の四大預言者の一人として、力強く神のことばを伝えた器です。ミカ書1章2節のところに「すべての民族よ聞け。」と。ミカは南北両方の民に仕えた器です。さらに3章1節。「聞け。ヤコブのかしらたち。」さらに3章9節。「これを聞け。ヤコブの家のかしらたち。」さらに6章1節にも「さあ、主の言われることを聞け。」さらに2節にも「山々よ、聞け。主の訴えを。」となっています。神様のことばを委ねられた者として、権威をもって南北の両国の民たちにメッセージを伝えたということになるわけですね。
年代的には、BC722年というのは何度も出てきていますけれども。北イスラエルの滅亡、アッシリア帝国によって滅ぼされるという年号になりますけれども。その前後、生きた器だということになります。
今晩は、このミカ書、直接的な学びということにはならないかと思いますけれども。このミカ書という書が、他の書物に引用があるというところを見て今晩の学びとさせていただきたいと思います。
①まず、3章12節を開けていただきましょう。
「それゆえ、あなたがたゆえにシオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。」
このお言葉がエレミヤ記の26章に出てくるわけなんですね。26章18節を開けていただきましょう。
「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダの民全体にこう語ったことがある。万軍の主はこう言われる。シオンの畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。」
ここに、モレシェテ人ミカがこのように語っていたと100年後、エレミヤがこのお言葉を引用して書いているんですね。そして19節を見ますと、
「そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべては彼(ミカ)を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちはわが身に大きなわざわいを招こうとしている。」
26章は興味深い箇所ですので見ておきたいと思います。100年前、ミカが同じようなこの預言をしたからといって、彼が殺されるということはなかったじゃないか。今あなたがたは、この同じ預言をもって民たちに警戒を与えるエレミヤを殺そうとしているのは一体どういうことなのか。ですから、あのミカが殺されなかったのであれば、エレミヤだって殺されてはならないのではないかという引用なんですね。
預言者の仕事というのは、民たちの現状に対して糾弾を与えながら、そして責任者として立てられている為政者たち。また特に宮殿に仕える祭司たち。それらを糾弾しながら。しかし、神様の恵みはあなたがたが悔い改めさえすれば、そこに祝福は備えられている。どの預言者もこのことばを伝えるために、それぞれの時代に立てられていたわけですね。
26章の初めのところを見ておきたいと思います。
「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの治世の初めに、主から次のようなことばがあった。主はこう言われた。『主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすればわたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直す。彼らに言え。『主はこう言われる。もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、あなたがたの前に置いたわたしの律法に歩まず、あなたがたに早くからたびたび遣わしてきた、わたしのしもべである預言者たちのことばに聞き従わないのならー実際、あなたがたは聞き従わなかったーわたしはこの宮をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の、ののしりの的とする。』』祭司と預言者と民全体は、エレミヤがこのことばを主の宮で語るのを聞いた。主が民全体に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえて言った。『あなたは必ず死ななければならない。なぜ、この宮がシロのようになり、この都がだれも住む者のいない廃墟となると、主の名によって預言したのか。』そこで、民全体は主の宮のエレミヤのところに集まった。これらのことを聞いてユダの首長たちは、王の宮殿から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入り口で座に着いた。祭司たちと預言者たちは、首長たちと民全体に次のように言った。『この者は死刑に当たる。彼がこの都に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。』エレミヤは、すべての首長と民に告げた。『主が、この神殿とこの都に対して、あなたがたの聞いたすべてのことばを預言するよう、私を遣わされたのです。さあ今、あなたがたの生き方と行いを改め、あなたがたの神、主の御声に聞き従いなさい。そうすれば、主も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されます。このとおり、私自身はあなたがたの手の中にあります。私を、あなたがたの目に良いと思うように、気に入るようにしなさい。ただ、もしあなたがたが私を殺すなら、あなたがた自身が咎なき者の血の責任を、自分たちと、この都と、その住民に及ぼすのだということを、はっきり知っておきなさい。なぜなら、本当に主が私をあなたがたのもとに送り、これらすべてのことばをあなたがたの耳に語らせたのですから。』」
と。エレミヤは自らの殉教覚悟に、神様のみことばを淡々と語り告げているという状況ですね。そして、指導者たちは、彼のことを死刑に当たる者だと決めてかかりました。16節
「すると、首長たちと民全体は、祭司たちと預言者たちに言った。『この人は死刑に当たらない。彼は私たちの神、主の名によって、私たちに語ったのだから。』それで、この地の長老たちの何人かが立って、民全体に言った。『かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダの民全体にこう語ったことがある。万軍の主はこう言われる。シオンの畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべては彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちはわが身に大きなわざわいを招こうとしている。』主の御名によって預言している人がもう一人いた。キルヤテ・エアリム出身のシェマヤの子ウリヤで、彼はこの都とこの地に対して、エレミヤのことばすべてと同じような預言をしていた。エホヤキム王、すべての勇士、首長たちは、彼のことばを聞いた。王は彼を殺そうとしたが、ウリヤはこれを聞いて恐れ、エジプトへ逃げて行った。そこで、エホヤキム王は人々をエジプトに遣わした。すなわち、アクボルの子エルナタンに人々を随行させて、エジプトに送った。彼らはウリヤをエジプトから導き出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、その屍を共同墓地に捨てさせた。しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることのないようにした。」
私たちも、聖書にここにこう書かれているからと言って、私たちの日々の生活の問題課題に当てはめては、私たちもその神の御心をしっかり受け止めて、そのようにさせていただこうと。聖書全巻は私たちの今日の問題に対して、直接的に神様が語っておられるおことばとして私たちも学んでいるとおりです。
このエレミヤがここで死ぬということが神の御心ではなかったからでしょう。しかしエレミヤと同じ預言をした人の場合には殺されてしまったというところがありますけれども。その長老たちが、かつて100年前にミカが預言していたその通りのことが、エレミヤの口を通してなされた時、あの時ミカが殺されるということが無かったように、エレミヤも決して殺されてはならない。あの時こうだったからだという聖書の用い方ということですね。
聖書はこのようにして代々、しかし、どのようにして預言者たち、長老たち、民たちによって渡されながら。そしてそれを活用されてきているのかということは、本当にこれは大変な働きですね。そのようにしながら私たちも、聖書のみことば全巻を通して、今日の私たちのこの問題にすべて適用させていただきながら、信仰生活をするということの大切さということをこういったことの中にも見せていただけるのではないかと思います。
②もう一つの引用聖句としては、ミカ5章2節が有名ですね。
「ベツレヘム、エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
これはご存知のように、マタイの福音書2章5、6節に。訳がこのおことばのそのものの内容で出ているのではないということはご存知だと思いますけれども。
「彼らは王に言った。『ユダヤのべツレヘムです。預言者によってこう書かれています。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
東の博士たちが、救い主がお生まれになられるところはどこでしょうかと、エルサレムにやって来て聞いた時、王が学者たちに尋ねるようにと調べさせて、そして引用されたのが、このミカのおことばですね。「あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。」と。「あまりにも小さい」と。表現的には違っても、同じことが語られていると思いますけれども。ミカは他の預言者同様に、これから学んでまいります中で、辛辣に民たちの現状を糾弾しながら、そして責任者たちにその追求を施し、そして貧しい者たちがどれほど貧困の中にあってもあなたがたは決して指一本さわろうとしない。そういったことが預言としてなされてるわけですけれども。
しかし、イザヤもそうでしたけれども、イザヤの1章1節から、民たち、頭の先からつま先まで罪でいっぱいだという表現から始まって、そして国を糾弾していますけれども。しかし、やはり預言者は糾弾するだけではなく、しかしそれは罪は罪として指摘しながら、イザヤ書でイエス様に関しての預言。特に私たちは、53章を何度も何度も受難週のために学ばさせていただいている箇所だと思いますけれども。
まるで彼がそこに居合わせた者であるかのような描写で、イエス様の受難の生涯を書いています。糾弾しながら必ず預言者は、もし悔い改めさえするならば、あなたがたには希望がある。このミカ書もイザヤと同じような糾弾をしながら、やはりキリストが誕生するということによって、あなたがたは究極の滅びではない。永遠の救いに与らせていただく神の恵みがそこにはいつもあるのだという。聖霊によって語られているところですね。
私たちはアモス書も学んできました。ホセア書も学んできました。やはり、そこには見て見ぬふりが出来ない。今の教会が罪を罪として伝えるということができなくなってしまっている。腐敗というのが拡がっているわけですけれども。やはり罪を罪として指摘するというところには必ず摩擦が起きる。迫害が起こってくる。少数の戦いになっていくということは、これは常の時代もそうですけれども。特に預言者などを私たちは見ていくときに、預言者が命をかけてそのようなことに、神様に、そして国に仕えたんだなというふうに思わせられます。
私たちは罪を罪とするということは、それは決して、裁いて、滅びを招くということで終わっているのではなく、必ずその罪の指摘に対して砕かれ悔いし心をもって従っていきさえするならば、いつでもキリストによる救いがある。そのことを目的として預言者が遣わされているのだということ、そのことを心に留めながら、ミカ書の内容に入っていかせていただきたいと思います。
ですから預言者たちの心は、エレミヤも何度も殺されそうになる中を通りながら、神のことばが彼を生かしつつ、そして最後まで殉教の生涯を送ったということですけれども。私たちにおいてもやはり、クリスチャンとして生かされていくということにおいては、預言者として召されている、主の弟子であるということはそういうことですけれども。預言者の生涯、生き方、弟子たちとはどういう者であるべきなのか。究極、本当にしたくない仕事、言いたくない、そういうことを言わなくて済めばどんなに楽だろうかというところも通らせられながら。
しかし私たちは決して妥協してはならないということは彼らの生涯から分かるわけですけれども。そのために預言者がそうであったように、どんなに暗黒の中に置かれて、そして自ら命を賭していかなければならない中にあっても、彼らの心の中にはいつも救い主への希望、喜び、そして神様との交わり。それが彼らをして生き延ばし。そして、殉教の死で終わりますけれども、それまでの生涯は彼ら自身、心に主への喜び、救い主との交わり、それがあってのことだったんだということを預言書を学ばさせていただくその都度私たちは、心の裡に喜びを絶えず主に抱き続けていくというこの一点にこころさせていただかなければならない。そうでなければ決して持つものではないんだということを共に学んでまいりたいと思います。
